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◇ ラオス旅行記 ビエンチャンその2
2013年05月09日 (木) | 編集 |
1551年に建立され当時の姿をとどめる『ワット・シーサケート』
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本堂には2000体、回廊には7000体近い仏像が納められています(と言ってもほとんどがとても小さい仏様です)
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エメラルド仏像を安置する為に建立された『ワット・ホーパケオ』です。
落ち着いた雰囲気で緑豊かな庭とあいまってラオスの寺院の中では一番好き…と思ったのですが。

実はシャム(タイ)の侵入により仏像も持ち去られ寺院も破壊されてしまったので現在の寺院は1936年からの修復によるものなのです。
しかも、破壊以前の姿が残っておらず原型とはかなり違っているらしい…。
『ワット・ホーパケオ』
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首都ビエンチャンと言えどさほど多くの観光地があるわけではありません。
そんな中『ブッダパーク』は微妙な立ち位置の観光地です。

歴史があるわけでもなく、芸術的でもなくしかも市内から離れていてタクシーで1時間もかかる。
しかし時間さえ許せばタクシー車窓の風景も面白いしミョウチクリンなエネルギーに触れるだけでも行って損はしません。

そんな『ブッダパーク』に出発。
ホテルが手配するタクシーを断り、ドライバーに直接交渉するとなんとホテルの提示額の半額以下、ジェジェー、やな客ですね。
もちろん交渉したのは、1円も値切れない私ではなく値切るのが趣味じゃないかと思われる家人です。

ブッダパークはタイへ亡命したお坊さんが作り上げた摩訶不思議な仏像公園です。
仏像だけではなくヒンズーの神々も祀ら、れなんじゃこれ、な状態なんですが妙にダイナミックで迫力があり迫ってきます。

様々な姿態、ポーズをとった仏像には、当然それぞれ意味を持つと思うのですが 『仏教説話より。詳しく知りたきゃ入り口でパンフレット買って読んでね』 的な説明(?)があるだけなので何がなんだかよくわかりません。
『ブッダパーク』
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上写真の頂上より園内を見る
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ブッダパークへの郊外の道は途中から舗装がなくなります メコン川を渡ればもうそこははタイです。
開発されてる様子が伺えます。
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ビエンチャンのシンボル 『タート・ルアン』 45mの黄金の塔がそびえ立っています。
中には仏舎利が安置されています。

昼は13:00から開くはずが、定刻になっても開く気配なし。
自転車で訪ねてきた旅行者が残念そうに帰っていく中、じっと待っていたら定刻からかなり遅れて開門!

待っててよかった~。
『タート・ルアン』
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寺院の階段はほとんどがこのナーガ(蛇神)で装飾されています
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『凱旋門』
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かつての宗主国フランスの凱旋門をモデルにして建てられた戦没者慰霊塔です。
一帯は整備された広い公園となっており、地方から出てきたラオスの人達が必ず訪れる観光地だそうです。

内部はまだ未完成だそうで、今はみやげ物屋でいっぱいです。

最上階の展望台より望むラーンサーン通り
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ところでビエンチャンの市街では人より車が圧倒的に多く、通りを歩いている人をほとんど見かけません。
観光客はタクシー、トゥクトゥクと呼ばれる軽トラ、もしくはバイクに後部座席を設けた簡易タクシー、またはレンタルバイクや自転車で移動します。

現地の人は女性でも民族衣装の巻きスカートを翻しながらバイクやスクーターに乗っています。
歩いていると押しボタン式の歩行者信号がなかなか変わらなかったり、そもそも大通り以外は信号がなかったりで通りを横切るのは決死の覚悟です。

それは車にも言えることで、道路を横断するのに車列が途切れず、そこへ切り込んでいくのは至難のワザです。
勇敢なバイクが活路を開くと待っていた車やバイクがワァーっとそれに連なって行くので今度は反対の車が渡る機会を虎視眈々と狙うことになります。

強い日差しの物好きにもテクテク中歩いてホテルに帰っていたら官庁街でおしゃれなレストランに遭遇しました。
これから行く世界遺産都市、ルアンパバーンに本店がある有名なラオス料理の店『タムナック・ラーオ』です。

お昼を外れていたせいかひっそりとした店内から眺める強烈な日差しに輝く庭の緑が気持ちがよく落ち着きます。
ここもまたとても美味しくて食べすぎ。
お腹いっぱいでついにこの日、夕食は食べられませんでした。
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到着した夜に行ったレストラン『クア・ラーオ』 フランス植民地時代の家屋です
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ホテル近くの街並み
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大統領公邸
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街で見かけた仏塔 裏通りのロータリーとなっていました。
金ぴかより風化したこの仏塔にほっと落ち着くのは日本的感覚なんでしょうね。
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街中のあちこちで見かける簡易食堂。本当に多いです。
近所の人が食べに来るようで、ラオスでは家であまり料理を作らない習慣なのかな。
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おまけ 略奪されたエメラルド仏像のナゾ~歴史に興味のある方はどうぞ
エメラルド仏像(実際はヒスイ製)を擁する国は栄える という伝説があるそうです。
エメラルド仏像とはそもそも一体誰が作ったのか。まとめてみました。

・ナーガ・セーナの発案で、インドラ神(帝釈天)とその配下のヴィサカンマが作りマガダ国のパータリプトラに安置されていた(by Wiki) そうですが

ナーガ・セーナはBC2世紀のインドの高僧、ヴィサカンマも神ではなく人。
インド古代16国の一つマガダ国はBC6世紀~BC1世紀なので、エメラルド仏はBC1、2世紀にパータリプトラ(インド北西、バングラディシュ、ミャンマーに近い)で創られたと思われます。

・内戦の混乱を避けスリランカ(一気にインド南端ですね)へ。

・パガン王国(現ミャンマー)のアルニッダ王が、三蔵経とエメラルダ仏像をスリランカから運び出すも、嵐により船はカンボジア(インダパタナガラ 現在のアンコール・トム)へ漂着。

・パガンは三蔵経は取り戻すもののエメラルド仏はそのままカンボジアに(王が失念していた とのことですがきっと取り戻せなかったのでしょう)。

・カンボジアのインタパタナガラの滅亡にともないエメラルド仏はアユタヤ(タイ)のアッディカーへ。

・アッディカー から カムペーンペッド国へ そしてさらに ラーンナー国によりチエンラーイ へとタイ国の中で奪い合われたあと、戦火を避けてチエンラーイで漆喰の仏像の中に塗りこまれて隠されていた。

・1434年漆喰の中から発見されたエメラルド仏はチエンラーイから同じくラーンナー国により首都チェンマイヘと移される。

・現ラオスに位置するラーンサーン国の王も兼ねることになった(さすが強国タイ)ラーンナー国の王は、ラーンサーンの首都ルアンパンバーンへと仏像を移す。

・ミャンマーの侵攻を避けて仏像はラーンサーン国の新首都ビエンチャンへ移される。

・その後ラーンサーン国は分裂しそのままビエンチャン国で保管される。

・1777年、タイのトンブリー王朝はミャンマーと繋がっていたビエンチャン王国を攻めて1779年、エメラルド仏像をビエンチャンより略奪してトンブリー(今のバンコク)へ持ち帰る。

・その後次のチャクリー王朝によりワット・プラケーオに安置され今にいたる。

タイが栄えているのはエメラルド仏のお陰でしょうか。
タイがラオスから略奪した、ということになっていますが、こうしてみるとタイが保持していた期間は長く、ビエンチャンはタイ領土でもあったので一概に略奪と言えないかもしれません。

確実に言えることはラオス人が再びエメラルド仏を取り戻そうとはこれっぽっちも思っていないだろうということです。
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コメント
この記事へのコメント
長い旅行記ありがとうございました。
ウン十年前のタイのよう?未だ、そこまで洗練されてないか。まあ、素朴なところが○。でも、サービスが×ですなぁ。
2013/05/10(Fri) 19:47 | URL  | ハルインフィジー #-[ 編集]
to HALさん
適当に読み飛ばして下さい。
社会主義国の公務員さんですから。
ほとんどの人は親切で慎ましい感じです。
2013/05/11(Sat) 08:25 | URL  | テニスメイト #-[ 編集]
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